瑞巌寺|松島青龍山瑞巌円福禅寺-臨済宗妙心寺派

伊達家の菩提寺、瑞巌寺。瑞巌寺は伊達政宗が1609年に建てた臨済宗の禅寺です。政宗が実際に瑞巌寺に来たのは4回です。

伊達家の菩提寺ですので、政宗の位牌も、ここ瑞巌寺にあります。瑞巌寺の他に瑞鳳寺も伊達家の菩提寺になっています。瑞鳳寺は瑞鳳殿のとなりにあります。

政宗のお墓は瑞鳳殿にあり、瑞鳳殿のお墓の管理は瑞鳳寺が行い、そして位牌は瑞巌寺と瑞鳳寺の両方にあります。よく勘違いをしている人がいますが、瑞巌寺には政宗のお墓はありません。そして更に政宗の位牌はひとつだけではありません。瑞巌寺と瑞鳳寺以外にも存在します。今も昔も、位牌が複数あることは決して珍しいことではありません。

瑞巌寺は桃山様式、桃山建築。伊達政宗は豊臣秀吉の命により約10年間、強制的に京都に滞在させられました。

その時に桃山文化の影響を強く受けています。絢爛豪華な桃山文化。それは当時の大流行していました。

派手好きで知られる政宗が影響を受けないはずがありません。その桃山文化を、政宗の美的センスを、この瑞巌寺で感じることができます。

瑞巌寺は、観光名所としてだけではなく、お寺として、禅道場として、現在もちゃんと機能している東北一、奥州一の禅寺です。

瑞巌寺専門道場として、現在もお坊さんを養成しています。お坊さんが集まって、禅修行もしているのです。

瑞巌寺専門道場
瑞巌寺専門道場

絢爛豪華な瑞巌寺の本堂ですが、1609年の完成当初の彫刻などの装飾に着色はされていませんでした。木地のまま、白木のままの状態でした。

その後、瑞巌寺完成から約10年かけて極彩色で着色されたと記録されています。

瑞巌寺の概要

正式名称

松島青龍山瑞巌円福禅寺。しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ、と読みます。

お寺の名称は、音読みが基本です。京都の清水寺(きよみずでら)は例外です。ちなみに神社は訓読みをします。お寺は中国伝来で神社は日本発祥だからです。

住所

宮城県宮城郡松島町松島字町内91番地。観光桟橋の目の前の、松島海岸の一等地にあります。

宗派

臨済宗妙心寺派の禅寺です。妙心寺派は臨済宗の最大宗派です。本山は京都の妙心寺です。

国宝

本堂、庫裡、本堂と回廊(庫裡を結ぶ板廊下)が国宝に指定されています。庫裡とは台所のことで、お坊さん達のご飯を作っていた建物です。

現在は本堂見学の際の入り口になっています。観光客は庫裡の入り口から本堂見学へと進みます。

平成の大修理

約10年に及ぶ大修理が行われました。修理は完了し、2018年6月より本堂見学が再開されました。

現在、伊達政宗時代の瑞巌寺本堂を見学することができます。

本堂

南東に面し、南西に御成玄関、南東に庫裡には庫裡と結ぶ回廊があります。横幅38m、奥行き24m、屋根は本瓦葺で高さ17.7メートル。

入母屋作り平屋。本瓦葺の屋根が特徴的で瓦の数は丸瓦と平瓦、合わせて6万枚使われています。

間取りは、室中孔雀の間、上段の間、上々段の間、羅漢の間、墨絵の間、仏間、文王の間、鷹の間、菊の間、松の間の10部屋。本堂内を撮影することは禁止されています。

しかし、本堂から外の風景を撮影することは可能です。係の人が見張っています。

上段の間

藩主御成の間で黒塗框の床の間、飾り金具が素晴らしい火頭窓や違い棚を備えた書院造りです。

襖絵は長谷川派の長谷川等胤、火頭窓の上の円満の文字は五代藩主の伊達吉村の書の文字です。

藩主の部屋です。黒塗框の豪壮な床の間・火頭窓・違い棚を備えた書院で、特に火頭窓等に施された飾金具がすばらしい。

この部屋と上々段の間は、今はなき仙台城本丸大広間にも設けてあり、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や仙台城大広間の豪華さを今に伝えています。

右手のはめ込み仕立ての4枚の襖は、本来帳台構(主人の私室)となるべき所だが、警護の武者が隠れる”武者隠し”と呼ばれています。

襖絵は牡丹・椿・葵・百合などが描かれていて、絵師は長谷川等胤。火頭窓の上の、円満の額は、5代吉村公の文字です。

武者隠し

上段の間の左側の襖は奥から二番目が引き戸になっています。帳台構という政宗のプライベート空間なのですが、武者隠しといわれています。

襖を開けると仏間の後ろにつながっています。その広さは2メートル×8メートルで、政宗が上段の間に入った時は、護衛の侍が待機していました。

火頭窓

明り取りのための窓ですが、非常口の役割もありました。瑞巌寺の裏は山になっています。周りは岩で囲まれています。

つまり薄暗い場所ですので明り取りが必要であったといえます。明り取り兼非常口です。

上々段の間

紅白椿図 飛天・迦陵頻伽図 竹図 〔長谷川等胤筆〕
上々段は上段の西南に、6畳分突き出した部分で、別に御座の間・又は帝鑑の間とも呼ばれています。

上段の間より大きい違い棚が付属し、西南及び東南は明り障子を建てた書院となる。

違い棚には「大椿八千歳」即ち悠久の長寿を保ち、しかも吉祥の色である紅白椿が描かれ、天袋の戸襖には平和な悟りの場所に出現する、迦陵頻伽と飛天(天女)が軽やかに舞っている。

飛天と迦陵頻伽(かりょうびんが)が描かれています。どちらも女性です。

迦陵頻伽は、頭が人で体が鳥の姿をしている想像上の鳥です。世界が浄化された時に現れる鳥です。飛天も迦陵頻伽も綺麗を声を持っています。

鷹の間

松の間の左手で、室中の右手。維新前は伊達家の武士の控え室であった。柏・桧を配し、白鷺を捕らえたり、兎を狙ったりしている鷹が描かれています。

鷹の絵は一騎当千とたたえられた伊達家の武勇を象徴します。筆者は狩野左京の弟子、九郎太です。

柏は新芽が出るまで葉が落ちない性質の樹木です。子孫が断絶しないことを表現しています。

墨絵の間

廊下左手。維新前は住持の応接室であったと伝えられています。襖絵は左から龍虎、寒山拾得、猪頭和尚です。筆者は雪村派の吉備幸益である。

墨絵の復元は困難を極めていて、墨絵の間の墨絵は当時のままになっています。

文王の間

伊達家親戚の控室です。襖絵は、周文王狩猟図です。中国・周の文王と名補臣太公望呂尚の出会いを中心に、宮殿の様子や周の洛陽の繁栄等が描かれています。

首都洛陽のように仙台の繁栄を一門の補佐に願っています。絵師は長谷川等伯(はせがわとうはく)の弟子で長谷川等胤(はせがわとういん)。

狩猟図の意味は、刀剣や乗馬や弓の鍛錬を怠らないようという意味で描かれています。

周の首都が洛陽が描かれていますが、その意味は、周は平和で豊かな800年続いた王朝です。

それは、優れた文王と武王が築いたからと言われています。文武両道の語源となっています。その願いが込められています。

透かし彫りの鶏は、諌鼓鶏です。諫鼓とは、昔の中国で君主に対して諫言しようとする民衆に打たせるために設けられた太鼓のことです。

鶏は鶏鳴によって君主に善政を促し、人々を警醒する想像上の鶏です。諫鼓鶏とは、善政であるため諫鼓を鳴らす必要がなく、その上にいる鳥も逃げないという意味です。

菊の間

東北に面す。御典医の控え室であった部屋には、薬草の菊の絵が描かれている。
筆者は狩野左京一門。

松の間

正面東南端。松・桜を配し、尾長鳥や鳩などさまざまな鳥が描かれている。
筆者は狩野左京弟子一門。

羅漢の摩

裏側中央の部屋で、政宗公に殉死した家臣及び陪臣計20名、忠宗公の殉死者16名の位牌がまつられている。

部屋を飾る「十六羅漢図」は、佐久間修理の遠孫得楼(徳郎)の制作で、明治初期に描かれたと考えられている。

絵師

狩野派の佐久間修理(さくましゅり)別名・佐久間左京または狩野左京、長谷川派の長谷川等胤(はせがわとういん)、墨絵は雪村派(せっそんは)吉備幸益(きびこうえき)。

狩野派と長谷川派はライバルと言われています。部屋単位で描かせそれぞれを競わせています。部屋のテーマに応じた絵が描かれています。狩野派、長谷川派、雪村派は、当時大流行していました。

長谷川等胤は柳生宗矩の友人でした。柳生宗矩は徳川家康に仕えていた柳生但馬守です。絵師でありながら幕府と高い距離にいた人物です。

室中孔雀の間

法要をする部屋です。本堂の中心部です。二重裾折上小組格子天井。四天王を示す幡が吊り下げられています。

狩野派佐久間修理(狩野左京)の松に孔雀の襖絵があります。孔雀は仏教誕生の地の鳥といわれています。

そして向かって右側から冬春秋と季節が変化する様子が表現されています。

季節ですので、春夏秋冬が常識ですが、ここは瑞巌寺本堂の中心部室中孔雀の間です。冬春秋なのです。

仏間

室中の奥。禅宗方丈様式の須弥壇をしつらえて、最上段の奥扉の中に本尊、聖観世音菩薩立像を安置しています。

本尊左側に伊達政宗の位牌があります。右側には伊達忠宗の位牌が安置されています。

庫裡

本堂の横にある大きな建物です。昭和34年に国宝に指定されています。庫裡とは台所のことです。お坊さん達の食事を作る場所です。

瑞巌寺の庫裡は、京都の妙心寺、同じく京都の妙心院とともに日本三大庫裡のひとつとされており、最高傑作と言われています。

瑞巌寺を見学する時は庫裡の入口から入ります。重量感ある屋根に圧倒されます。そして中に入ると、巨大な梁が姿を表します。

屋根には煙出しがついています。瓦を見ると伊達の家紋のひとつである九曜紋がついています。

入口を入ると、雲版という金属製の板がつられていますが、これは食事の時間を知らせるための鐘のレプリカです。本物は宝物殿でみることができます。

建築部材

紀州檜、杉、欅等の熊野材が使用されています。これは政宗が紀州より取り寄せた部材であると科学調査で証明されました。

担当した大工は京都の根来(ねごろ)大工です。

欄間

東西西三方に上縁と下縁が巡らされています。唐門や欄間の総透かし彫りは、根来の工匠、刑部(おさかべ)一門によるものです。

大工棟梁と彫刻家

棟梁は京都の梅村彦左衛門家次。彫刻は紀州の刑部左衛門国次が担当しました。

刑部左衛門国次は左甚五郎のモデルとなった人物です。左甚五郎は架空の人物で実在しません。彫刻家の代名詞として使われている名前です。

瓦職人

仙台藩の瓦は大崎市近辺の窯で焼かれていましたが、その後、廃れてしまいました。室町後期から安土桃山初期までは瓦を焼く技術が東北では失われてしまいました。

政宗は瓦を焼く職人と技術も関西から招き瓦を焼く窯業を復興させました。

瑞巌寺の屋根の葺き替えは慶安、天保、明治、大正と行われ、昭和27年、33年、48年に行われました。古い瓦もそのまま使われています。

御成玄関

天皇や皇族や藩主用の玄関で、乙字形玄関と言われています。象木鼻、粽、礎盤、円柱の唐様建築です。

七宝輪違いを装飾した火頭窓、床は花崗岩の四半敷になっています。御成玄関の各彫刻には彩色はされていません。本堂と比べると派手さは感じません。

御成玄関には有名な欄間彫刻があります。葡萄(ぶどう)と木鼠(きねずみ)です。木鼠とはリスのことです。島崎藤村の詩にも出てきます。

なぜ葡萄と木鼠の彫刻なのか、その理由は、葡萄は武道です。そしてリスは律するです。武道に律するという意味です。

これは瑞巌寺に限らず武士の間で好まれたデザインです。一般の人の場合は、葡萄は房が多く、ネズミは子沢山なので繁栄を意味します。

登竜門

中門に向かって右側の門が登竜門です。現在は登竜門からの出入りはしていませんが、昔は一般人向けの出入り口でした。

一般の人とは参拝する人のことです。昔の瑞巌寺は観光地ではなく、純粋にお寺でした。この登竜門の内側、つまり庫裡から入った登竜門の天井付近には、昔の人が書いたであろう、落書きを見ることができます。

そして、その落書きとは、御朱印と同じものです。誰かが御朱印の練習をしたのではないかと言われています。

一般人が御朱印の練習をすることはないでしょうから、当時の関係者、内部の人かもしれませんね。いずれにしても天井にあります。

登竜門から出入りしていた人は一般の参拝客。

そして登竜門から入った天井付近にはそれを見張る人がいたとのことですので、見張り人の誰かが暇つぶしに書いたのかもしれません。

総門

総門とは瑞巌寺の入り口の門です。一番海側に立っている古い門のことです。瑞巌寺の完成した1609年に伊達政宗により建てられた、一間一戸袖塀つきの薬医門です。

瑞巌寺公式サイトには、2016年に修復工事が行われたと記されています。

総門の上部の扁額(へんがく)には、桑海禅林と書いてあります。扁額とは横に長い額のことで、表札や看板のようなものです。

扶桑(日本)の海辺の禅寺、という意味です。この文字は瑞巌寺105代住職の天嶺性空が書いた文字です。

瑞巌寺の歴史

瑞巌寺が完成したのは1609年です。1604年8月15日の中秋の名月の夜、伊達政宗が自分で縄張りをしました。完成するまで約5年かかっています。

しかし瑞巌寺ができるずっとずっと前には、他のお寺がありました。最初にあったのは、天台宗の延福寺というお寺です。

延福寺

瑞巌寺に古くから伝わる天台記という文書があります。その文書によると、延福寺は、828年に自覚大師円仁さんが作ったお寺です。828年は平安時代です。

瑞巌寺の東500メートルの場所にあったと言われています。円仁さんは、日本全国のあちこちにお寺を作ったことで有名な人です。

実際はどのなのかは不明だそうです。有名なところでは、中尊寺、毛越寺、立石寺、そして瑞巌寺。

この4つのお寺をお参りすることを四寺廻廊といい、あの松尾芭蕉も、奥の細道で四寺をお参りしています。

延福寺のお経は、なんみょうほうれんげいきょう…の法華経。延福寺の延は比叡山延暦寺の延です。

自覚大師円仁さんは延暦寺からやって来たお坊さんなのです。

日吉山王社の神輿を先頭に三千人の学生や率いてやってきました。淳和天皇の勅願寺になりました。

円福寺

そして、ふたつ目のお寺は円福寺。読み方は同じですが、字が異なります。延が円になりました。こちらは臨済宗のお寺です。

正式名称を臨済宗建長寺派円福寺といいます。瑞巌寺と同じ場所にあったと言われています。

天台宗の延福寺から、1259年に臨済宗の円福寺に改宗されました。改宗にかかわった人は、鎌倉幕府の補佐役、北条時頼。

北条時頼は鎌倉幕府の五代執権として活躍した人です。そして、法心性西和尚(ほっしんしょうさいおしょう)。

法心性西和尚の俗名は真壁平四郎。高徳として異彩を放った人物といわれています。

北条時頼と法心性西和尚が出会った場所は法身窟として今も現存している。

円福寺は鎌倉幕府が援助守りを受けて繁栄していました。室町時代になると、五山十刹制度により末寺を増え発展しました。

東北の臨済宗の拠点として大きく発展しました。

しかし戦国時代に入ると、戦乱により、お寺にお参りをする人も減り、お坊さんの修業もできなくなりました。

お参りをしている場合ではない、という世の中になってしまいました。そして瑞巌寺は衰退していきました。

円福寺は荒れ果てた名ばかりの古刹となってしまいました。衰退時は建長寺派から妙心寺派にかわっていました。

建長寺派は北条時頼が深く関わっていたこ宗派です。妙心寺派にかわったということは北条時頼の庇護がなくなったということなのでしょう。

そして、その廃れたお寺に、虎哉宗乙禅師のすすめで伊達政宗が新たにお寺を建てました。それが瑞巌寺です。

1609年に瑞巌寺が完成しました。正式名称は臨済宗妙心寺派の松島青龍山瑞巌円福禅師といいます。

1609年3月26日の落慶祝儀の際には、朝鮮出兵の時に持ち帰った五葉の松と紅白の臥龍梅を本堂の前庭に政宗自らが植え、瑞巌寺の永遠の繁栄を祈念しました。

領民のための信仰による安心と領内の平和の実現のために作ったお寺だと、虎哉宗乙禅師の松島方丈記に記されています。

約400年前の姿のまま残っているお寺が瑞巌寺なのです。

瑞巌寺建築にあたって政宗は、土足厳禁、地面に落ちた釘やかすがいは絶対に使うな、と訓示しました。

地面は不浄であり、不浄なものは使わないという政宗の強い思いがありました。瑞巌寺建設に関する資料や記録はあまり残っておりません。

1604年8月15日の中秋の名月の夜、自ら行った縄張りを行い、朝鮮から持ち帰った臥龍梅を自ら植え、五葉松をも自ら植えたことから、政宗の瑞巌寺に対する情熱を感じます。

瑞巌寺の見どころ

さてその瑞巌寺ですが、見どころはどこにあるのでしょうか?歴史として、美術として、建築として、様々な視点から楽しむことができます。

瑞巌寺と同じぐらいの規模のお寺は全国にたくさんあります。お寺といえば京都。特に京都に集中していることでしょう。

規模だけ見ると、残念ながら瑞巌寺がすごいとは言えないかもしれません。

では、瑞巌寺の見どころは何なのか?

伊達政宗の存在事実を感じることのできるお寺

瑞巌寺は伊達政宗が建てたお寺です。伊達政宗の強い意思と、美的センス、そして願いの全てを込めて作られたお寺なのです。

お寺の随所でそれを感じることができます。それが最大の見所なのです。

伊達政宗が建て、伊達政宗時代に存在し、伊達政宗の位牌があるお寺、だということが、最大の見どころなのです。

瑞巌寺には伊達政宗が生きた証しがあるのです。

京の都から遠く遠く離れた地の絢爛豪華な桃山文化。伊達政宗の勢い、意気込み、決意を感じることができます。

政宗のファンでなくとも、政宗に興味がなくとも、瑞巌寺に行けば、政宗を感じることができます。瑞巌寺イコール伊達政宗なのです。

よく瑞巌寺は城の役目もあるのではないか?と言われていますが、最近の研究では残念ながらそれは否定されています。

廊下は鶯張りではありません。単なる老朽化によるもの。裏山の隠し通路もありませんでした。

そして何より伊達政宗が瑞巌寺に来たのは生涯3回だけでした。1回目は縄張りの時、2回目と3回目はお参りのため、です。

縄張り
1604年8月15日中秋の名月の夜、伊達政宗が自ら縄張りを行ったことが知られている。

その際、よく月が見えるようにと、門の前の2本の杉の間か月が見える位置にしたということが知られている。

臨済宗妙心寺派、現在の建物は政宗により1604年の中秋の名月8月15日の夜に縄張りがされ1609年に完成したもの

鰻塚

昔、松島では鰻がたくさん取れたそうです。

今は松島から鰻のイメージは全くありませんが、ところが、あまりにもとりすぎため、とれなくなったそうです。ということで供養しようとなった次第です。この石碑は大正時代に作られました。

鉄道殉職者供養塔

700名の鉄道殉職者の慰霊碑です。当時は事故が多かったようです。特にトンネル工事が、危険だったとのことです。

瑞巌寺は格の高いお寺ですから、このような供養碑があるのです。

古い写真を見ると、どうもこの場所には伊達安芸の銅像がたっていたことが推測されます。伊達安芸とは伊達騒動にも出てくる人物です。しかし、そのことは公にされていないように思えます。それはなぜでしょうか。きになります。

御成門

藩主、天皇、将軍が使用する門。

中門

藩主の代理が使用する門です。中門は国の重要文化財に指定されています。瑞巌寺の建物の中で中門だけが柿葺(こけらぶき)です。

登竜門

一般の人が使う門

お坊さんは庫裡から出入りするため門を使うことはありませんでした。

障壁画

復元したものは全てレプリカです。本物は保管されています。

このことは本堂内の案内板には書かれていないので、本物の襖絵だと思って見ている観光客も多いのですが、残念ながら復元模写です。

国の重要文化財に指定されています。

拝観料は大人700円

宝物館青龍殿

瑞巌寺の貴重な宝物を保管展示しています。本堂の障壁画、茶碗、絵画発掘調査で出土した資料等、収蔵品は約3万点です。

瑞巌寺本堂は幣制の大修理により綺麗になりました。極彩色の襖絵等の障壁画を見ることができますが、あれは全てレプリカです。

実物は宝物館青龍殿に保管されています。

毎年4月と10月には、本物の障壁画を使った、上段の間と上々段の間の再現部屋を見ることができます。

保管修理

本物の障壁画を修理しました。襖から絵を剥がし、洗浄し、襖や戸に仕立て直し、保管しました。

復元模写

本物の障壁画から下絵を描き、本物と同じ絵の具を使い模写しました。模写ですので本物ではなく、レプリカです。

本堂にはレプリカが飾られています。

木像

愛子姫が作らせた政宗の木像があります。伊達政宗甲冑倚像(いぞう)。倚像とは両脚を前にして椅子や台座に腰を掛けた姿の像のことです。

宮城県の重要文化財に指定されています。政宗の正室愛子姫の出家後の像、陽徳院愛子姫像。

政宗と愛姫の長女五郎八姫の出家後の像、天麟院五郎八姫像が展示されています。

運が良ければ、上段の間と上々段の間の障壁画を見ることができます。通常は非公開ですが、不定期で公開しています。

収蔵品

本堂障壁画1622年、雲板1326年、木造五大明王像、政宗甲冑倚像1652年

瑞巌寺と同じ様式、つまり桃山建築、桃山美術の建物で代表的なものは、豊臣秀吉が建てた、京都の聚楽第(じゅらくだい)、そして仙台城の大広間です。

現存しているのは瑞巌寺のみですので、瑞巌寺が貴重であることがわかると思います。

平成の大修理の際には新たな発見がありました。それは瑞巌寺の壁に筋交いがあったことです。驚くことに全ての壁に筋交いがありました。

この時代の他の建物には見られないとても珍しいことのようです。当時の最先端技術が用いられていたのです。

石斛せっこく

中門の前の杉の木に着生した石斛が2本あります。種が風で運ばれてきて自生したものです。

ちなみに石斛は松島の町花です。

石斛は日陰で育ちますが、瑞巌寺の石斛は日当たりのよい場所で育ちました。

石斛は蘭の仲間です。デンドロビウムの仲間です。

直径は約80cmで樹齢は約300年です。北では育たないためこの石斛が北限の石斛となります。

石斛は松島町の天然記念物に指定されています。

5月下旬に薄いピンク色の花を咲かせます。

法身窟

格子戸の嵌まった岩窟は鎌倉時代半ば、宋より帰朝し、この岩窟に遁世していた法身禅師と執権北条時頼が出会ったところと伝えられています。

内部には多くの供養塔があり、中央の碑は、当山99世雲居希膺和尚の国師号「大悲圓満碑」です。

北条時頼公の供養塔もありましたが、現在は3つに折れてしまっています。

洞窟手前の右に楊柳観音、左に鎮海観音の石碑があり、さらに左側奥には、仙台出身の江戸時代の大横綱、谷風と両親の碑があります。

国鉄殉職者の碑

瑞巌寺のお坊さんで、岐阜羽島出身の盤龍禅礎が大正8年に国鉄や東北大学、警察で出張教授として、安全について研修会を行っていました。

しかし、それでも犠牲者が出たため、碑を建設することになりました。

盤龍禅礎は明治38年瑞巖寺住職に就任しています。

大正15年には瑞巖寺専門道場を開きました。専門道場は現在も継続しています。瑞巌寺は臨済宗最北端の道場です。

城郭建築

瑞巌寺に城郭建築の痕跡は見られません。見張り台といわれたのは、単なる煙出し、鶯張りは全国的に否定されています。

秘密戸は水を引くための高低差をつけるために掘られたトンネルの跡です。警備のための設備があるからといってすなわち城郭建築とはいえません。

臥龍梅

1593年に豊臣秀吉の命令で伊達政宗も朝鮮に出兵しました。その時に鉢植にして持ち帰った梅の苗木です。瑞巌寺に植えたのは1609年です。瑞巌寺が完成した時です。

政宗が朝鮮から苗木を持ち帰りそれを仙台症の庭に植えたことは政宗が詩に残しています。そしてこの詩の中で注力すべと点は次のとおりです。鎧の袖からの梅の香り、異域の花、後園。後園とは奥の庭のことです。日本への移動の際、船の中でその梅が香ったことを表現し、外国の花を表現し、そして白の奥にある庭に植えたことを表現した詩です。

とても奥深い詩です。政宗は朝鮮への出兵を快く思っていなかったかもしれません。つまり他国のカルチャーを重んじる人だったのかもしれません。それは支倉常長からも理解できることでしょう。異国の梅を持ち帰る。その梅は船の中で自分の衣の奥底から控えめに香った。半島で流れた血の償いのためにも自分の城の庭に植えた。それも手植えをした。そして更に植えた場所は庭の目立たないところ。つまり庭の奥。政宗の胸中を察することができるのではないでしょうか。

五葉松と臥龍梅を手植えしました。海を背にして右が紅梅、左が白梅です。庫裡側が紅、御成玄関側が白です。

地面を這うような姿が龍と似ていることが、臥龍梅の名前の由来です。花は八重咲きで4月に咲きます。八房の実をつけます。臥龍八房という別名があります。

臥龍梅とは梅の品種の名前ではありません。梅の樹形のことをいいます。長い年月をかけて臥龍の形になった梅のことです。つまり苗木の段階では臥龍のような姿にはなっていません。臥龍梅のほとんどは老木です。つまり樹齢の若い苗が臥龍のような姿になることはありません。仮に臥龍梅から接木で増やした苗木が売っていたとしても、臥龍の姿はしていません。臥龍梅は長い年月をかけて臥龍の姿になりますので、庭に植えたとしても、その姿になるまで数百年はかかると思います。瑞巌寺の臥龍梅は政宗が手植えをしましたので、すでに400年以上経過しています。

臥龍梅は瑞巌寺以外にもあります。例えば、仙台の古城や西公園にもあります。古城とは政宗が晩年過ごしたお城です。古城の臥龍梅は日本一の大きさです。梅で有名な水戸の偕楽園にもあります。静岡にもあります。

臥龍梅は日本全国にありますがそう数多くはありません。有名なものは天然記念物に指定されています。現在は苗木を買おうと思っても売っている店はないと思います。

枝や幹が折れ曲がり地面に接触すると、その接触した部分から根が生えます。その形が龍と似ている梅です。

梅の原産地は中国です。もともとは中国に自生していた樹木です。今は日本全国にありますが、中国から伝わる前は、梅は日本にはなかったのです。

臥龍梅の臥龍という言葉は中国が語源です。中国の三国志に出てくる諸葛孔明のことを臥龍といいます。劉備が諸葛孔明を仲間にするために三度誘ったのが三顧の礼。劉備はなぜ諸葛孔明を仲間にしたかったのかというと、それは諸葛孔明が臥龍だったからです。

臥龍とは、寝ている龍のことをいいます。龍は嵐の日に天に向かって登るとされています。それまでは、天には登らず大地に潜んでいます。人に例えるとチャンスを待っている大物という解釈になります。諸葛孔明はそんな存在だったといわれています。才能があるのに、まだその機会を得ずに大地にひっそりと寝ている龍。

三国志が日本に伝来したのは、政宗の時代よりもずっと前です。日本の学問は中国から強い影響を受けています。そもそも漢字、仏教、そして兵法も中国から伝来しています。政宗はエリート教育を受けていますので、当然三国志のことも知っていたことでしょう。

瑞巌寺が完成し、その境内の入口の左右に臥龍梅を手植えするという、この意味。おわかりでしょうか。臥龍とは天に登るチャンスを待っている龍のことをいいます。5年の歳月を費やし完成した瑞巌寺。同じ時期に仙台城や大崎八幡宮も完成しています。この時の政宗の心の内にあるものが明確に見えてきます。

臥龍梅というと徳川家康を思い出します。静岡県の清見寺には徳川家康の臥龍梅伝説があります。政宗とほぼ同じようなエピソードです。

杉並木

千本杉といわれていた杉並木は、現在は当時の三分の一程度になっています。昔は薄暗い参道でしたが、今は日が差し込む明るい参道になっています。

昔とは雰囲気が全く違います。

塩害により伐採されて杉の木の幹が残っていますが、その年輪を見ると、重ねてきた歴史が見えてきます。

杉並木参道を歩いていゆくと、左側に小さな看板が立っています。津波の到達地点を表す看板です。

その看板のところまで津波がきました。看板のところが津波が止まったところです。

その地点に立ち、瑞巌寺の本堂側を眺めてみると、瑞巌寺側が高くなっているのがわかります。

斎太郎節の歌詞にもあるように、瑞巌寺は、前は海、後ろは山なのです。瑞巌寺から海側に傾斜がついているのがわかります。

260の島々が防潮堤の役目をし、更に山の傾斜が水の侵入を防いでいるのです。大昔は日本屈指の霊場として栄えた松島です。過去千年津波による犠牲者は出ていないといわれています。

洞窟

瑞巌寺の総門をくぐると、右側にたくさんの洞窟を見ることができます。この洞窟は瑞巌寺だけでなく、松島のいたるところで見ることができます。

この洞窟は、修行僧が掘ったものだといわれています。

天台宗の慈覚大師円仁の弟子や学生が掘り、わらを敷いて、格子をつけて修行していたとされてますが、供養塔が比較的新しいものしかなく、実際は江戸以降に掘られた洞窟だといわれています。

凝灰岩のため洞窟を掘りやすいのが松島の特徴のひとつです。260の島を見ればわかるとおり、波による侵食しやすい島が多いのです。

洞窟内には塔婆や五輪塔、戒名といったものが無数に刻まれています。供養場として使用されていたことがわかります。お墓所ではありませんので、お骨はありません。

供養者には岩手県や山形県の人もいます。

洞窟内で一番古い供養塔は、1636年の、政宗公に殉死した佐藤内膳吉信のものです。

松島は「奥州の高野」と呼ばれた場所です。亡き人の供養が営まれた場所でありました。

瑞巌寺総門
瑞巌寺総門
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