仙台城跡

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仙台城。通称青葉城。伊達政宗が34歳の時に建てた仙台藩のお城です。城跡ですので、残念ながらお城としての建物はひとつも残っていません。仙台城跡が正しい名称になります。

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仙台城本丸跡

そして観光スポットとしての仙台城跡は本丸跡です。仙台城には本丸と二の丸と三の丸がありました。山の上にあるのが本丸です。政宗の騎馬像のある場所です。二の丸と三の丸は山の下にあります。

仙台藩は戊辰戦争での賊軍とされ、仙台城は売却されたり、取り壊されました。更に国宝指定された大手門も1945年昭和20年7月10日の仙台空襲により、230機のB29が落とした1万発の焼夷弾により燃えてなくなりました。仙台空襲の犠牲者は約3千人と言われています。

仙台城の建物が残っていれば、かなりの観光資源だったことでしょう。残念です。

仙台城にはもともとお城がありました。一番目の城は千体城という名前のお城です。その後、千代城という名前にかわり、鎌倉時代末期から室町時代にかけて陸奥守島津氏の居城でした。室町末期には始末しにかわり国分氏が居城としてたとされています。

仙台には国分町という東北一の繁華街があります。店舗数は約2700店。週末の来客数は1日6万5千人です。その国分町の名前の由来になった人です。国分氏が住んでいたので、国分町という名前になりました。

現在も国分氏の末裔は仙台にいらっしゃいます。仙台成田山国分寺がそれです。このお寺の住職は代々国分という名字です。国分氏の国分です。

陸奥守国分氏が築いた城です。その名を千代城といいます。せんだいじょうと読みます。政宗はその城の構造を利用して仙台城を築きました。

政宗と対立していた上杉と緊張関係にあった政宗は早く城を作る必要がありました。だからもともとあった千代城の構造を利用したのです。

岩出山から北目城に移り仙台城に移りました。

1600年縄張り、1602年大広間以外が完成しました。大広間はその後1610年に完成しています。大広間は、例えで、千畳敷と言われるほどの広さでした。実際は千畳ではなく、畳の枚数は260枚、廊下も含めた全体の広さは430畳分の面積があったとされています。

大広間には上段の間と上々段の間という部屋がありました。この部屋は松島の瑞巌寺にもあります。

仙台城は山城です。東側が約60メートルの崖です。西側は荒れた山です。そして南側は渓谷です。難攻不落の城でした。

しかし仙台城は、築城当初の流行から外れた城でした。

戦国時代はほぼ終わっており、つまり徳川による天下が確立されていました。無用な戦いは減り、平穏な世の中が始まっていました。

しかし政宗だけは違いました。まだまだ天下を狙っておたのです。徳川に遠慮して、天守閣を作らなくったのではなく、天下を、狙っていることを、家康に悟られたくはなかったのです。

江戸から離れた遠い仙台。都の文化も伝来しにくい場所。つまり仙台は遠い田舎。皆がそう思っていたことでしょう。

このことが政宗の天下への夢を広げたのです。

1600年から作り始めた、度肝を抜くような豪華絢爛な桃山建築の数々。

西国から棟梁を呼び寄せ、絵師を呼び寄せ、彫刻家を呼び寄せ、僧侶を呼び寄せたのです。

政宗は藤原北家山陰流です。藤原であることにプライドを持っていました。

平泉に京都に匹敵するほどの巨大な都を作った藤原氏。

都になびくよりも、自分が都をつくることにかけたのです。

懸造

東側の崖には懸造という眺望台のようなものがありました。京都の清水寺の舞台のようなものです。60メートルの崖ですから、清水寺以上の高さです。

天守台跡

天守台とは天守閣を建てるための台座のような場所をいいます。小高い丘のようになっています。

政宗は仙台城にも天守閣を建てる予定でした。

家康に遠慮して建てなかったと言われていますが、そのような文献や文書はのこっていませんので、遠慮というのは想像でしょう。

家康にバレないように、天守閣を造らなかったというほうが、近いのではないかとおもいます。

仙台城は百万石の覚書事件のあとです。政宗の性格から、家康に遠慮するということは、考えにくいですね。

天守閣を造らなかったのは、本音を隠したかったからです。

仙台城本丸跡には天守閣予定地があります。古地図にもちゃんと、天守台跡と記されています。政宗はその場所に天守閣を建てる予定でした。現在ある本丸会館の裏手のこんもりした場所が天守台跡です。

政宗の騎馬像の台座を天守台跡といっていたり、本丸跡全体が天守台跡といっている人風いますが、全て間違いです。

天守台跡は浦安神社の後ろのこんもりした山のことです。あの山を天守台跡といいます。

浦安神社の裏が天守台跡
浦安神社の裏が天守台跡

仙台城跡の本丸会館の裏にある浦安神社です。この神社の裏山が天守台跡です

天守台跡
この道路の奥に天守台跡があります
天守台跡
木が生い茂っている場所が仙台城の天守台跡です。

仙台城から仙台市中心部の眺めです。右側に高いビルが見えますが、このビルが東北で一番高いビルのトラストタワーです。ウエスティンホテルが入っているビルです。この崖の下には広瀬川を見ることができます。

仙台城からの仙台市中心部の眺め(2022年9月)
仙台城からの仙台市中心部の眺め(2022年9月)

三の丸

三の丸には、伊達政宗の屋敷がありました。池、四阿(あずまや)、茶屋のような建物があったとされています。忠宗の時代になると、三の丸は、蔵屋敷、御米蔵、といったものが建てられました。北には子の門(ねのもん)、南には巽門(たつみもん)、そして五色沼、長沼という名の御堀と、御堀の内側に土塁がありました。

これらの跡は現在も確認することができます。巽門は仙台空襲で消失しました。

三の丸は御堀と土塁で囲われていました。

当時、土塁は、岸、土手を呼ばれていました。土塁の高さは巽門近辺で約9メートル、子の門近辺は約13メートルの高さだったといわれています。かなりの高さです。

酒蔵

仙台城の三の丸そばには酒蔵がありました。政宗が1608年に奈良県から呼び寄せた、又右衛門という職人が、三の丸近くにある、湧き水を使い酒造りをしていました。又右衛門は、政宗から、かやのもり、という名前を与えられ、仙台藩の酒を醸造していました。その後、まさむねと ともに若林城に移り、若林でも酒を作り続けました。明治時代までづいていたといわれています。日本酒の他に、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒も造っていたといわれています。

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